鏡よ鏡 (Mirror, oh Mirror!)
鏡よ鏡 山田維史 英語で「鏡」を意味するミラー mirror の語源は、ラテン語のミラリ mirari (見る、注意を向ける;look at )、もしくはミルス mirus (驚くべき、不思議な; wonderful )から変化したミラレ mirare (見る; look at )であるという。ミラクル miracle (奇蹟、おどろくべきこと)も同じ語源である。また、アドマイアー admire (感嘆する)、マーヴェル marvel (驚異)、ミラージュ mirage (幻影、妄想)も同じである。 こうして語源や派生語を書き出してみると、そこに、鏡の物としての実体以外の「精神的要素」というべき事態が浮かび上がってくる。 プラトンは、磨きあげられた鏡の「輝き」と、たぶんに精神的意味合いをふくんだ「澄明さ」とを同一文脈でとらえている。これは古代ギリシア文明においてのみならず、わが日本においても同様な認識だ。日本では、古くは赫見(かがみ)という文字を当てていたが、これは太陽を表わしている。円鏡というのはまさにその形状表現にほかならない。私見によれば、古代の日本の鏡は、映すために使われたのではなく、光りを反射して輝くものとして神の依代(よりしろ)として用いられたのである。 ところで、鏡に映った映像の非実体ということに思想の焦点をあわせれば、中世キリスト教世界は、鏡を媒介にした極めて重要な真理を獲得した。聖パウロが伝えるイエスの次の言葉がそれである。 「われら今鏡をもて見るごとく、見るところ昏然(おぼろ)なり。されど、かの時には、面(かお)を対(あわ)せて相見ん。我いま知ること全(まった)からず。されど、かの時には我が知らるるごとく我しらん。」(『コリント前書』第 13 章 -12 ) もうすこし分かりやすく言い直してみよう。 「私たちは、いま、鏡で見ているように、見るものはみなぼんやりとして明確でない。しかし、神の国が到来したときには、神の栄光にまともに向いあうことになるのだ。私がいま知っていることはほんの一部で、完全ではない。しかし、その時がくれば、私の姿が誰の目にも明らかなように、私は神の栄光のいかなるかを知るだろう。」 ホイジンガは『中世の秋』のなかで、この聖パウロの伝える言葉は、「中世の精神が信じた最高の真理である」と述べている。つまり、...